1週間くらい前の山形新聞さんの記事に、ここ数年で見つかった最上義光が山形城主だった頃の城下町の絵図2点が最上義光歴史館さんで初公開されているという記事がございましたので、今日はそのお話です。
山形城の歴史は古く、延文2年(1357年)には斯波兼頼によって築城が始まったとされております。最上家も元は斯波兼頼が最上郡に入って後、最上を称する事に始まった斯波氏の末流です^^
城下を伝える絵図としては『最上家在城諸家中町割図』(山形県立図書館様蔵)が最も古い資料として知られております。
その『最上家在城諸家中町割図』は、元和8年(1622年)最上義俊が家中の派閥抗争が原因で、近江1万石へ改易になった際、城の引継ぎ用として幕府に差し出された資料であることより、その当時の山形城下の姿が映し出されていると考えられています。
そして今回初公開されている2点の絵図。
うち1枚は、数年前に山形藩秋元家の旧家臣宅で見つかったもの。もう1点は昨年の12月、市内の旧家から見つかった資料で、資料への書き込みから文化7年(1810年)に写されたとみられ、絵図中にある屋敷の家臣名から最上義光が山形城主だった時代を描いた絵図と推測されております。書かれている内容からも信憑性も高いと考えられている様です。
もし、最上義光の時代の城下を描写したものと断定されれば、『最上家在城諸家中町割図』よりも古い義光当時の山形城下を知りえる、重要な資料となります。
山形新聞様で紹介されている『最上家在城諸家中町割図』と、この2点の資料との違いは大きく5つです。
●11カ所とされる三の丸の出入り口が、発見された資料では10カ所。(山形中央郵便局付近に位置する横町口がない)●空き地になっていた二の丸の外側の土地が、発見された資料では家臣の屋敷となっている。●東西にしかないはずの本丸の門が、発見された資料には南北にもある。●寺社の配置が異なる。●三の丸の外に広がる職人町が、発見された資料では三の丸の中側にある。(義光は慶長5年(1600年)の出羽合戦のあと、寺社や町人を三の丸の外へ誘導)
この5つの違いや何らかの資料などから、今回発見された資料の年代が特定されればと・・・・・・今後にきたいですね^^
最上義光歴史館様では、この2点の絵図を10月11日まで展示しております。
気になる方はぜひ歴史館様で!!
◇最上義光歴史館◇
〜2010.10.11まで展示中
住所:山形県山形市大手町1-53
電話:023-625-7101
営業時間: 午前9時〜午後5時00分
(入館受付は4時30分まで)
定休日:毎週月曜日
但し、月曜日が祝日にあたる場合は開館。
翌火曜日が休館。
アクセス:<鉄道>
JR山形駅より徒歩約15分
<バス>
霞城公園前バス停留所(大手町バス停)より徒歩1分
<自動車>
山形自動車道山形蔵王I.Cより約20分
詳細につきましては、最上義光歴史館様HPをご覧下さい。
http://www.mogamiyoshiaki.jp/